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2012年08月03日

ガン闘病の記録 ②


ということで、前回の続きです。

ガンが判明して原発を探すことに尽力した6月。
そして、今回は怒濤のように過ぎていった7月を書き留めておこうと思います。

今回も、他に同じ心労を抱えていらっしゃる方に多少でも参考になれば・・・ということで、検索用に関連用語を記載しておきますよ。
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転移性肝臓癌 転移性肝臓ガン 転移性肝癌 転移性肝ガン
肝臓ガン 肝臓癌 末期 症状
神経内分泌腫瘍 神経内分泌ガン 神経内分泌癌 胚細胞腫瘍
ビリルビン 数値
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2012年 7月上旬

大学病院の複数名の先生が協議した結果、どうやら「神経内分泌腫瘍(神経内分泌癌)」が原発と確定。
これが確定した段階で「基本的に、打つ手はない」との宣告を受ける。
そもそも肝臓ガンが末期の状態だったから、やむを得ないのですが・・・。

そして、肝臓の「ビリルビン」の値が少しづつ上昇しているとのこと。
この値が肝臓の機能を示すもので、上がり続けると機能が停止するらしい。

現状から「今月中~8月くらいまでしか生きられないかもしれない」と宣告を受ける。

我々家族は「延命処置はせず、できるだけ苦しまないことを最優先してください。ただ、余命は本人には伝えないでください。」とお願いする。

あと、「ウソでも気晴らしでもいいので、栄養点滴みたいなものとかビタミン剤みたいなものを『抗ガン剤です』って与えてあげることはできませんか?」とお願いしてみた。
が、医療行為である以上、こういったことは難しいらしい。
何も処置をしてあげられないってのもツラいとこだ。

ということで、本人には病名は告げたが、余命は告げず。
「とりあえず体力が戻ってから治療方針を決めましょう。」
「まぁ、年末とか正月とか、そういう話じゃないので気長に治療しましょう。」

と先生が話してくれた。

この頃から少しづつ痩せはじめる。
それと並行するように、体力が落ちていくのが見え始めた。

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2012年 7月15日(日)

数値に大きな変化がなく、当面治療もなく、ムスメの誕生日をお祝いしてあげたい、ということで、ひとまず退院

ムスメの誕生日当日、さすがに食事の準備をする体力はないが、じっとしてられない性格なので玉子焼きなどを作る。
が、動いては休み、動いては休み・・・といった状況。

食事の時には少しビールも飲む。
やや疲れているようだが、ムスメの誕生日を祝ってくれた。

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2012年 7月18日(水)

病院で検査の日。
白血球の値が上昇しているということで、そのまま再入院

細菌性のものか、癌ホルモンが分泌している(?)か、判断するということらしい。
この時点では血液の数値に大きな変動はない・・・が、微増している。

そして、徐々に痩せて体力が落ちていくのが分かる。

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2012年 7月21日(土)

数日後、母の姉妹が見舞いに来るということで、外出許可
みんなで食事に行こうということで、回転寿司へ。

足どりは弱々しいものの、驚くほどの食欲を見せる。
普段は好まない揚げ物を食べたがる。

病院への帰路、肩を借りないとフラつくほど疲労していた。

その夜、母の姉妹、我々とで今後のことを話し合う。
姉妹には余命についても伝えた。
そして今後はできるだけ母の意志を尊重することとした。

この晩餐を最後に、症状が一気に加速していく。
看護婦さんからは「最後のときを、病院で迎えるか自宅で迎えるか、ご家族で相談しておいてください」と伝えられる。

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2012年 7月22日(日)

医者から「当面は治療することもないので、本人が希望すれば退院させてもいいですか」との連絡。
昨夜の話し合いで、本人の意志を尊重すると決めたので、そのように伝える。

本人が退院したいとのことで、そのまま退院
この日は自分で食事もとり、トイレも風呂も行った。

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2012年 7月23日(月)

翌朝、自分では動けないようになる。
急遽病院へ。そのまま入院。

横たわる姿は意識が朦朧として、ほとんどの時間は昏睡状態なのか睡眠状態なのか分からず。
素人目で見ても、もう数日しか生きられないのではないかと思えるほどの状態に陥る。

一時間おきくらいに目を覚まし、手招きでワタシを呼び、小さな小さな声で「のどがかわいた・・・」と訴える。
ストローを刺したペットボトルを口に近づけて水を飲ませる。

そんな中でも「ごはんを食べないと元気になれない。薬が飲めない」ということで食事を食べる。
おかゆに梅干しを細かくして添えて、口へ運んであげる。

先生からは「ここ数日で、ということはないと思いますが、会わせたい人には早めに会わせてあげてください。」と言われる。

尿は管から、そしてオムツを装着。

一昨日、一緒に寿司を食ったとは思えない衰えだ。

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2012年 7月25日(水)

朝、昼と見舞いに行くが、ずっと昏睡状態(?)のまま・・・いや、うっすらと目を開けているように見える・・・気のせいか。
午後、看護婦さんから「問いかけに対して反応が無くなりました」との連絡が。
とはいえ、家族や孫の呼びかけに、声は出ないが少し口をパクパクさせる。

先生は
「肝臓の機能が働いていないため、毒素が脳にまわり、脳症状態」
「意識レベルが落ちてきています」
「この先は予測できませんが、念のため血圧や脈などのモニタリングを始めます」
とのこと。

看護婦さんからは「苦しかったり悩んだりする期間が短いうちに意識レベルが下がってくるのは、ある意味では幸せかもしれません」と。
ホント、その通りだと思う。
本人が「もう長くないのかも」「どれだけ続くんだろう」と考えてるんじゃないか、と考える自分もツラいから。

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2012年 7月26日(木)

奥様、子供たちを連れてお見舞い。
この日はハッキリと目を開いている。・・・視線は宙を彷徨ってるけど。
呼びかけると、必死に口をパクパクさせて応じようとしている。
そして、目には涙が浮かんでいる。何か伝えたいのか、それが伝わらずもどかしいのか。
涙をふいてあげると、目を閉じる。そして再び呼びかけに応じて涙を流す。

血圧がやや高い(145)のと、脈拍の速さ(110越え)が気になる。

そして目には黄疸が出ているのがハッキリ分かる。
黄疸は肝臓が機能していない証拠らしい。

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2012年 7月27日(金)

午後、付き添いの叔母から「呼吸がおかしい。モニタリングもやや乱れてる」との連絡。
夕方、駆けつける。
目を見開き、まばたきもしない状態。
同じく駆けつけた孫たち(ウチのボウズ、ムスメのイトコ)が必死で呼びかける。
脈拍が200を越えたり50を切ったりという乱高下状態。

19:00 叔母と孫たちがいったん帰宅。
その途端、脈拍が50~60で落ち着いた状態になり、看護婦さんからも「この落ち着いた状態で、しばらく続くかもしれませんね」と言われる。
私の弟と、今夜の付き添いについて相談。

その数分後、看護婦さんが「酸素量が落ちてきてます」と駆けつけてくる。

よく見ると、呼吸の間隔が長くなって、瞬間的に「呼吸が止まった・・?」と思うほどになる。
そのとき、モニタを確認すると、脈拍が50、40、30、20・・・と下がっていく。
脈拍がゼロになった瞬間、先生が駆けつけた。

先生から死亡確認の説明を受ける。

最後は本当に穏やかだった。
命の灯火が少しづつ消えていった、そんな感じだった。

叔母や孫たちが帰ってから30分ほどのことだった。
そして、外出許可をもらって、みんなで寿司を食べてから一週間に満たない時間だった。

きっと、呼びかけに必死に応えようとしてたんだと思う。
そして、みんなが帰ってから安らかに逝ったんだと思う。

二人の子供(ワタシとワタシの弟、)に看取られて逝った母は幸せだったと思いたい。


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少し痩せてきたな、と思ってから一カ月。
体力が落ちてきたな、と思ってから半月。
最後に入院してから4日ほど。

余命宣告を受けてから、アッという間のことだった。
別れを惜しむには、あまりも短い時間だったけど、すごく濃密な時間でもあった。

そして癌の進行の恐怖を体感した時間でもあった。

こういう経緯を辿った・・・という一例&参考になれば、と思います。

そして、次回からは通常運転のブログに戻りたいな、と思っていますよ。

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Posted by テン at 07:41│Comments(4)雑記棚
この記事へのコメント
テンさん、病名は違いますが、私も今朝連絡があり、同じような状況に陥っております。
めっちゃ怖いです。
だけど現実を受け止める事しか出来ないと思っております。
今後ともよろしくなのです。
Posted by メイガンymk☆メイガンymk☆ at 2012年08月06日 12:00
メイガンymk☆ さま

そうですか・・つらいですね。
私も最初に連絡を受けたとき、ガンという恐怖と同時に「とはいえ、なんだかんだで数年は大丈夫なんだろな」と現実を受け入れられなかったことを思い出します。

ガンに侵された本人さんが一番ツラいと思うので、せめて周りは笑顔で、元気に、勇気づけてあげてほしいと思います。

次々と訪れる現実を受け止めるのは苦しいことだと思いますが、あまり無理なさらず・・・。

種類によって、いろいろな対処方法があると聞きましたので、なんとか快方に向うことを願ってます。
ワタシの経験なんぞで役にたつことがあれば、なんなりと!
Posted by テン at 2012年08月07日 07:55
テンさん、久しぶりに書き込みます。
いつものメタルの雰囲気とは全く異なっている話題ですが、内容が内容だけに真剣に見入ってしまいました。
ウチはありがたいことに幸い両親ともに健在ですが、今までに大切な人を何人か看取ってきました。
読み進めていくうちに、いろいろと思い出して涙が出てきました。
テンさんもご無理をなさらないようにしてください。
気持ちの整理ができたら、また、いつものメタル話を聞かせて下さいね。
Posted by cha-keycha-key at 2012年08月07日 20:49
cha-keyさま

ありがとうございます。
そうですか・・いろいろな場面に立ち会ってこられたんですね。
ワタシは初めて身内らしい身内を亡くしたのが30歳を過ぎてからだったので、それまでは全くそういった場面に立ち会うことはありませんでした。
母も短い闘病で苦しむ時間も短かっただろうし、そういう意味では恵まれていたのかもしれません。

ボチボチと通常モードに入っていこうと思いますので、よかったら時々のぞいてくださいな。
Posted by テン at 2012年08月24日 07:42
 
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