ヘビメタパパの書斎 › 2012年08月

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2012年08月27日

それぞれの夏休み

子供たちの夏休みが終わりましたね。
やっと終わったかー、と胸をなで下ろしているお母さんたちも多いことでしょう。
ワタシも、ようやく日常のリズムに戻れるということで安堵を感じてますよ。

さて。

今年の我が家の夏休みは、ある意味ではいろいろと試される夏休みだった。

共働きの我が家では、昨年まではムスメもボウズも学校の「学童保育」といわれるところに預かってもらっていた。
学校の延長で勉強したり遊んだりできる場だ。

この学童保育、3年生で終了するのだ。
だから、ムスメが4年生になった今年は、ムスメは当然行けないし、ボウズが一人となるとイヤがるんじゃないかという心配もあった。
ムスメは注意深い性格だからよっぽど大丈夫と思いつつも、一学期だけで2回も鍵を無くしたというオトボケっぷりを発揮しているので、これまた心配なところであった。

が、夏休みが始まってみると・・・

ちょうど一学期の後半くらいから、近所でムスメと同じ歳のおねーちゃん、ボウズと同じ歳の弟、という姉弟と仲良くなりはじめた。
それぞれがそれぞれに、居心地がいいらしく、ムスメもボウズもその友達といつも一緒にいるようになった。
当然、それぞれが姉弟だから、4人で過ごすことも多いわけだが、その4人だと不思議なほどモメごとが少ない。

夏休みに入って、その関係がより深まったようだ。

ボウズは最初少しだけ学童保育へ行ったが、その後はその友達と過ごすことが多くなった。
子供たち用にお弁当を作っておくのだが、そのお弁当をどちらかの家で4人で食べる、という生活スタイルが定着したようだ。

一学期はとても留守番なんか任せられない様子だったボウズも、その友達と過ごすことで自分で考えるようになった。
二人で山へカエルや虫を捕まえに行ったり、二人で公園に行ったり、双方の家へ行き来したり。

ムスメもその友達と遠方まで自転車で出かけていったり。
いろいろと難しくなってきている友人関係を二人で相談してたり。

夏休みの終盤には、その友達とそのお母さんを招いてバーベキューをした。
子供たちはサッと食ってサッと遊びに行ってしまったわけですが、奥様とそのお母さんは日が暮れるまでいろいろと話していた。
同じ目線で語れるママ友達がいるってのはシアワセなことなんだろうなーと思いましたよ。
トーチャンどうしが集まったところで、そんなに子供の話ばっかりしないもんなー。

夏休み最終日は、子供たち+その友達を引き連れて古い街並まで散歩。
ウチからは、ひとやま越えていかないと行けないので疲れたと思うけど、楽しかったようでなによりだ。


この夏休みで二人ともたくましくなったなーと感じます。


この間、母(子供たちから見ると、ばーちゃん)を亡くしたことも影響があるようだ。
特にムスメが、ことあるごとに
「こんなことしとると、ばーちゃんが見て笑うでな。」
「おとーさん!そんなこと言うと、ばーちゃんが天国で怒っとるでな!」

と、いろいろ自らを奮い立たせるようなことを言うようになった。

可愛がってもらったからなー。自分がしっかりしないと、って思いがあるんだろうと思う。


今日から二学期がスタートします。
夏休みでたくましくなった(と思われる)二人が、イキイキと登校・・・と言いたいところですが、昨夜は「あー、学校始まるなー。イヤやなー。っつーか、学校で何やればいいか忘れたわ。無理。」などとグチグチ言ってたので、あんまり期待しないようにしようかと。
  

Posted by テン at 07:30Comments(2)子供たち棚

2012年08月24日

嘲笑を乗り越えて

さて、いろいろありましたがボチボチと通常運転に戻りますよ。
興味のある方も、ない方も、むしろこのままフェードアウトしちゃえばよかったのに!というアンチの方も、よろしくお願いしますね。




デビュー当初の「DQNメタル(笑)」「厨二メタル(笑)」「ツーバス(笑)」という嘲笑の的から思えば、すっかり中堅どころだ。
どれだけ揶揄されようが、自分たちのポリシーを貫き通して「個性」として認められるレベルまで引きずり込んだ。

今年はLOUDPARK12へも参戦しますよ!!

DRAGONFORCE [THE POWER WITHIN]



イギリス出身。なんだかんだで5作目、デビューの喧騒からほぼ10年ですよ。

メロディックスピードメタル・・・にカテゴライズされつつ、徹底的にスピードに拘り、そのエクストリームなスピード感にメロディを乗せたってとこでしょうか。
その圧倒的スピード感は上述の通り批判的な声も多かったわけですが、ワタシのような単純なヒトには「おー、カッケーな!!」と歓迎されていた・・・ような。

ここ数作は、キラーチューンはしっかり押さえつつも、ややマンネリ感というか、彼らにしては「まとまってる」感が漂ってた。

で、今回はヴォーカルがチェンジ。
前任のZPサートがDRAGONFORCEサウンドにマッチしていて、バンドのカラーという意味でも存在感があったので、心配していました。

が。
結果的には問題ナシと言っていいでしょう。新加入したマーク・ハドソンは派手さはないものの、安定したヴォーカルを聞かせてくれます。
音楽性も、ヴォーカルが変わったというキッカケがあったからかどうか分かりませんが、最近のマンネリ感を打破してくれているのではないでしょうか。

先行公開された[Cry Thunder]がミディアムテンポだったこともあり「おいおい、ヴォーカル変わったとたんにコレかよ」と不安が過りましたが、やはりいつものドラフォ節です。

そしてこのアルバム、1stに通じるような空気を発散してくれているのがウレシイ。
DRAGONFORCEならではのスピード感を軸に、解放感と飛翔感、そしてポジティブなエネルギーを撒き散らしつつ疾走していく。
ここ数作、この「撒き散らしてく感」が乏しかった。

DRAGONFORCE史上最速!! という[Fallen World]「速いだけ」に留まらず、しっかりとフックを効かせて印象的な曲に仕上がっていますね。
この曲の次にミッドテンポの[Cry Thunder]が来ると「お、悪くなないかも」と思えるからフシギですね。
冷静に聞くとTURISASあたりを想起するガッツィーで勇壮な曲です。

この[Cry Thunder]以外は、「疾走感」を基本にしてはいるもの、それぞれの曲の方向性が微妙にバラついてるところも1stっぽいなと思います。
スペーシーな曲あり、北欧メタル風のメロディあり、[Evening Star]を思い出すようなリリカルな曲あり。
このスピード感と適度に揺さぶられるようなジェットコースター的感覚こそ、彼らの魅力だと思うんだよね。

全くDRAGONFORCEを知らない人に勧めるなら、このアルバムでいいんじゃないかな、と思える出来です。


さて、LOUDPARK12で来日が決まったわけですが、実はワタシはDRAGONFORCEのライブを見たことがない。

初期は「グダグダ(笑)」「ダメダメ(笑)」と、これまた嘲笑の的になっていたようですが、最近はすっかりライブも安定感が出てきたと聞きます。

アルバムやライブに批判的な意見が集中してるってことは、逆にそれだけ注目されているからこそ、とも言えるわけです。
何があっても自分たちのスタイルを貫き通して、みずから道を切り拓いてきた彼ら。

きっとラウドパークではその「ジェットコースター的スピード感」をさらに加速させてサークルピットの渦を作ってくれることでしょう。
期待!


DragonForce - Holding On

  

Posted by テン at 07:36Comments(0)D

2012年08月03日

ガン闘病の記録 ②


ということで、前回の続きです。

ガンが判明して原発を探すことに尽力した6月。
そして、今回は怒濤のように過ぎていった7月を書き留めておこうと思います。

今回も、他に同じ心労を抱えていらっしゃる方に多少でも参考になれば・・・ということで、検索用に関連用語を記載しておきますよ。
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転移性肝臓癌 転移性肝臓ガン 転移性肝癌 転移性肝ガン
肝臓ガン 肝臓癌 末期 症状
神経内分泌腫瘍 神経内分泌ガン 神経内分泌癌 胚細胞腫瘍
ビリルビン 数値
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:
:
:

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2012年 7月上旬

大学病院の複数名の先生が協議した結果、どうやら「神経内分泌腫瘍(神経内分泌癌)」が原発と確定。
これが確定した段階で「基本的に、打つ手はない」との宣告を受ける。
そもそも肝臓ガンが末期の状態だったから、やむを得ないのですが・・・。

そして、肝臓の「ビリルビン」の値が少しづつ上昇しているとのこと。
この値が肝臓の機能を示すもので、上がり続けると機能が停止するらしい。

現状から「今月中~8月くらいまでしか生きられないかもしれない」と宣告を受ける。

我々家族は「延命処置はせず、できるだけ苦しまないことを最優先してください。ただ、余命は本人には伝えないでください。」とお願いする。

あと、「ウソでも気晴らしでもいいので、栄養点滴みたいなものとかビタミン剤みたいなものを『抗ガン剤です』って与えてあげることはできませんか?」とお願いしてみた。
が、医療行為である以上、こういったことは難しいらしい。
何も処置をしてあげられないってのもツラいとこだ。

ということで、本人には病名は告げたが、余命は告げず。
「とりあえず体力が戻ってから治療方針を決めましょう。」
「まぁ、年末とか正月とか、そういう話じゃないので気長に治療しましょう。」

と先生が話してくれた。

この頃から少しづつ痩せはじめる。
それと並行するように、体力が落ちていくのが見え始めた。

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2012年 7月15日(日)

数値に大きな変化がなく、当面治療もなく、ムスメの誕生日をお祝いしてあげたい、ということで、ひとまず退院

ムスメの誕生日当日、さすがに食事の準備をする体力はないが、じっとしてられない性格なので玉子焼きなどを作る。
が、動いては休み、動いては休み・・・といった状況。

食事の時には少しビールも飲む。
やや疲れているようだが、ムスメの誕生日を祝ってくれた。

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2012年 7月18日(水)

病院で検査の日。
白血球の値が上昇しているということで、そのまま再入院

細菌性のものか、癌ホルモンが分泌している(?)か、判断するということらしい。
この時点では血液の数値に大きな変動はない・・・が、微増している。

そして、徐々に痩せて体力が落ちていくのが分かる。

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2012年 7月21日(土)

数日後、母の姉妹が見舞いに来るということで、外出許可
みんなで食事に行こうということで、回転寿司へ。

足どりは弱々しいものの、驚くほどの食欲を見せる。
普段は好まない揚げ物を食べたがる。

病院への帰路、肩を借りないとフラつくほど疲労していた。

その夜、母の姉妹、我々とで今後のことを話し合う。
姉妹には余命についても伝えた。
そして今後はできるだけ母の意志を尊重することとした。

この晩餐を最後に、症状が一気に加速していく。
看護婦さんからは「最後のときを、病院で迎えるか自宅で迎えるか、ご家族で相談しておいてください」と伝えられる。

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2012年 7月22日(日)

医者から「当面は治療することもないので、本人が希望すれば退院させてもいいですか」との連絡。
昨夜の話し合いで、本人の意志を尊重すると決めたので、そのように伝える。

本人が退院したいとのことで、そのまま退院
この日は自分で食事もとり、トイレも風呂も行った。

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2012年 7月23日(月)

翌朝、自分では動けないようになる。
急遽病院へ。そのまま入院。

横たわる姿は意識が朦朧として、ほとんどの時間は昏睡状態なのか睡眠状態なのか分からず。
素人目で見ても、もう数日しか生きられないのではないかと思えるほどの状態に陥る。

一時間おきくらいに目を覚まし、手招きでワタシを呼び、小さな小さな声で「のどがかわいた・・・」と訴える。
ストローを刺したペットボトルを口に近づけて水を飲ませる。

そんな中でも「ごはんを食べないと元気になれない。薬が飲めない」ということで食事を食べる。
おかゆに梅干しを細かくして添えて、口へ運んであげる。

先生からは「ここ数日で、ということはないと思いますが、会わせたい人には早めに会わせてあげてください。」と言われる。

尿は管から、そしてオムツを装着。

一昨日、一緒に寿司を食ったとは思えない衰えだ。

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2012年 7月25日(水)

朝、昼と見舞いに行くが、ずっと昏睡状態(?)のまま・・・いや、うっすらと目を開けているように見える・・・気のせいか。
午後、看護婦さんから「問いかけに対して反応が無くなりました」との連絡が。
とはいえ、家族や孫の呼びかけに、声は出ないが少し口をパクパクさせる。

先生は
「肝臓の機能が働いていないため、毒素が脳にまわり、脳症状態」
「意識レベルが落ちてきています」
「この先は予測できませんが、念のため血圧や脈などのモニタリングを始めます」
とのこと。

看護婦さんからは「苦しかったり悩んだりする期間が短いうちに意識レベルが下がってくるのは、ある意味では幸せかもしれません」と。
ホント、その通りだと思う。
本人が「もう長くないのかも」「どれだけ続くんだろう」と考えてるんじゃないか、と考える自分もツラいから。

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2012年 7月26日(木)

奥様、子供たちを連れてお見舞い。
この日はハッキリと目を開いている。・・・視線は宙を彷徨ってるけど。
呼びかけると、必死に口をパクパクさせて応じようとしている。
そして、目には涙が浮かんでいる。何か伝えたいのか、それが伝わらずもどかしいのか。
涙をふいてあげると、目を閉じる。そして再び呼びかけに応じて涙を流す。

血圧がやや高い(145)のと、脈拍の速さ(110越え)が気になる。

そして目には黄疸が出ているのがハッキリ分かる。
黄疸は肝臓が機能していない証拠らしい。

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2012年 7月27日(金)

午後、付き添いの叔母から「呼吸がおかしい。モニタリングもやや乱れてる」との連絡。
夕方、駆けつける。
目を見開き、まばたきもしない状態。
同じく駆けつけた孫たち(ウチのボウズ、ムスメのイトコ)が必死で呼びかける。
脈拍が200を越えたり50を切ったりという乱高下状態。

19:00 叔母と孫たちがいったん帰宅。
その途端、脈拍が50~60で落ち着いた状態になり、看護婦さんからも「この落ち着いた状態で、しばらく続くかもしれませんね」と言われる。
私の弟と、今夜の付き添いについて相談。

その数分後、看護婦さんが「酸素量が落ちてきてます」と駆けつけてくる。

よく見ると、呼吸の間隔が長くなって、瞬間的に「呼吸が止まった・・?」と思うほどになる。
そのとき、モニタを確認すると、脈拍が50、40、30、20・・・と下がっていく。
脈拍がゼロになった瞬間、先生が駆けつけた。

先生から死亡確認の説明を受ける。

最後は本当に穏やかだった。
命の灯火が少しづつ消えていった、そんな感じだった。

叔母や孫たちが帰ってから30分ほどのことだった。
そして、外出許可をもらって、みんなで寿司を食べてから一週間に満たない時間だった。

きっと、呼びかけに必死に応えようとしてたんだと思う。
そして、みんなが帰ってから安らかに逝ったんだと思う。

二人の子供(ワタシとワタシの弟、)に看取られて逝った母は幸せだったと思いたい。


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少し痩せてきたな、と思ってから一カ月。
体力が落ちてきたな、と思ってから半月。
最後に入院してから4日ほど。

余命宣告を受けてから、アッという間のことだった。
別れを惜しむには、あまりも短い時間だったけど、すごく濃密な時間でもあった。

そして癌の進行の恐怖を体感した時間でもあった。

こういう経緯を辿った・・・という一例&参考になれば、と思います。

そして、次回からは通常運転のブログに戻りたいな、と思っていますよ。
  

Posted by テン at 07:41Comments(4)雑記棚

2012年08月01日

ガン闘病の記録 ①

先日、母を亡くしました。

60台前半という若さでした。

今まで大きな病気などなく、初めての入院。
そして病気が判明して2カ月弱という短い時間で逝ってしまった母。

この記事は、いつもの自分の趣味を全面に押し出したものとは趣が異なります。
面白い話は何もありませんし、ヒネりも何もありませんから、興味がない方にとっては退屈極まりないものとなっています。

私自身、母が病魔に侵されてから、その病気を調べるためにいろいろとネットで検索しました。
どんな症例、どんな経過、どんな心境、そういったことを調べようとしたのですが、意外と情報が少なくて不安が募りました。

そんな方の不安を取り除く助力になれればと思い、検索ワードなんかもつけておきますね。検索で引っかかってくれることを願いつつ。

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転移性肝臓癌 転移性肝臓ガン 転移性肝癌 転移性肝ガン
肝臓ガン 肝臓癌 末期 症状
神経内分泌腫瘍 神経内分泌ガン 神経内分泌癌 胚細胞腫瘍
ビリルビン 数値
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そしてもちろん、自分自身の記憶を留めておくためであります。


まずは体に小さな異変があった、今年の冬から、ガンを発見した6月まで・・・


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2012年 冬
左手が少し震えるという。原因は不明。
また、胃の痛みと膨満感が少し。
診察を受けたが、この時点ではそれほど気に留めず。

2012年 春
引き続き、胃の痛みと膨満感。
かかりつけ医に聞いたところ、胃炎との診断。
胃薬を処方してもらう。
血液検査に異常はなかった。

2012年 4月
実家の祭り。
いつも通りご馳走を作り、いつも通りビールを飲む母。
左手の震えは残っているが、普段と変わらぬ様子。
この先の激変を予期させるものは無い。

ただし、胃の調子は相変わらず。

2012年 5月
ゴールデンウィークに親戚が集まる。
これまたいつも通りにビールを飲んで楽しく話す母。

下旬、奥様方で不幸が入る。
ワタシの実家方での対応について、ワタシと口論。
まったく怯むことない姿は、いたって元気そのもの。

・・・・・が、ここから劇的に変化が。

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2012年 6月上旬

かかりつけ医から「血液検査で異常あり」とのこと。
総合病院で再検査した結果、「転移性肝臓ガン」との診断。

胃の不調は、どうやら肝臓が肥大化したことにより胃を圧迫していたことが起因しているようだ。

どうして「転移してきた癌」「そこから発生した癌」が分かるのかが不思議だが、分かるものらしい。

この時点で、肝臓全体が癌に浸食されていることが判明。
本人にも知らされる。
ただし、まだ抗ガン剤治療という望みがあることが前提での告知だ。

そのまま原発元を調べるために、入院。
原発によって抗ガン剤の種類が異なるため、判明するまでは特になにもできないとのこと。



「転移性肝癌の場合、大腸からの可能性が高い」ということで、大腸を検査。
が、発見できず。

その他、胃カメラ等で胃ガンなども疑う。
しかし発見できず。



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2012年 6月中旬

肝臓の細胞の一部を採取して原発を調べる、とのこと。
ただし、結果が判明するまでに1~2週間かかるということで、その間に専門病院でPET検査を受けることに。
日帰りで可能とのこと。



数日後、PET検査の結果も原発不明。




入院しているとはいえ、あくまで検査がメインなので、「早く判明するといいねぇ。」という程度。
体調も良好。

ただ、入院して半月近く経過しても原発が不明であることに対して不安と不信感が募る。
この頃、家族ではセカンドオピニオンや転院について相談をしていた。

が、病院内だけでなく県内の大型病院に常時相談を持ちかけているということ。
そして本人が「大腸や胃の再検査は苦しいから、転院はしたくない」とのことで、現状のまま過ごすこととなった。

転移性ガンの原発が不明のまま、ということも多々あるらしいが・・・やはりハッキリしないと落ち着かないものだ。

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2012年 6月下旬

この頃は、入院してはいるものの、自分で何もかもできる状態。
メールのやりとりも頻繁

やや食欲は薄れてきているか。



細胞検査の結果、「胚細胞腫瘍」が原発である可能性が高い、とのこと。
ただし、まだ確定ではない、と。

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ということで、6月に転移性肝臓癌であることが判明して約一カ月。
原発を調べることを最優先していた一カ月でありました。

食欲はモリモリというほどではありませんが、食べられるものを食べる。
病院内を散歩する。
会話やメールも通常通り、という状態でした。


ということで、次回は怒濤の一カ月となった7月のことを記しておこうと思います。

  

Posted by テン at 07:30Comments(0)雑記棚